焼鳥の匠 平野 郁侍

焼鳥 ひら野

平野 郁侍

焼鳥の文化・伝統の継承と共に、業界のニューノーマルを創る。

1975年、大阪生まれ。麻布十番【鳥善瀬尾】【東京ステーションホテル瀬尾】で計18年間の経験を積み、2022年2月に【焼鳥 ひら野】をオープン。同店は食べログ焼き鳥百名店2023にも選出された。ひら野の焼鳥は、江戸の伝統技法「近火強火」で焼き上げます。

インタビュー

意図せず飛び込んだ料理の世界に魅せられ、一生の仕事に。

高校卒業後、電気工事士になるための専門学校へ友人と一緒に入学しました。将来は関電工に入社するか、親友の実家の電気屋さんで働きたいと考えていたのです。しかし、1年生の前期の時点で早くも脱落してしまいます。勉強しなかったせいで単位が取れず、進級できなかったのです。当時の私は補習でも受ければ、進級は認められると思っていました。しかし、目の前に突き付けられた現実は、「退学」または「就職」の二択!結果的に退学と同時に、電気工事士の夢は破れたのでした。

19歳の私は、ひとまずフリーターになりました。週に6回サーフィンをして、その傍らでいろんな商材を売ってみたり、居酒屋やカラオケで働いてみたり…。千葉の実家に住んでいたので、稼いだお金は自分の好きなことに使えました。当時はお金に余裕もあったしクルマも持っていたし、自由な生活を謳歌していましたね。

24歳、初めての就職先は鮮魚市場だった。

潮目が変わってきたのは、私が24歳の頃でした。それまで一緒に遊んでいた同世代の友人たちが、急に落ち着き始めたのです。気づけば周囲を見渡すと、ほとんど後輩ばかりになっていました。そしてついに、親友までも「就職する」と言い出したのです!彼が船橋のマグロ屋の採用面接に行くというので、私も一緒に行くことにしました。そこで社長に気に入られ、2人とも即採用(笑)私にとって初めての就職は、マグロのセリや加工を行う市場の仕事でした。出勤時間は毎朝2時30分。マイナス50℃の冷凍庫内の作業など、肉体的にかなりハードな労働環境でした。給料に不満はなかったものの、一生続けられる仕事だとはとても思えませんでした。

同世代の友人たちを見渡すと、毎日スーツを着て働いていたり、それなりの役職へと出世していたり…。現状の自分と比較して、なんだか羨ましく思えてきました。自分もガテン系の仕事を卒業して、いわゆる「ちゃんとした会社」で働きたい…!そう思った私は、約2年間お世話になった市場を辞め、友人の紹介で人材派遣の大手企業に転職しました。ところが、そこは「ちゃんとした会社」どころか、超絶ブラック企業だったのです(笑)勤務時間は朝7時から深夜3時まで。紹介者の友達は1週間も帰宅しておらず、オフィスに寝袋を敷いて寝泊まりしているような状況でした。

自分らしく働くためには、店を持つしかない。

いろんな仕事を経験したおかげで、自分をよく知ることができました。たとえば大手の人材派遣会社に勤めたことで、いかに自分が組織に向かない人間なのかということも、はっきりと自覚したのです。私にとって、常に「マニュアル通り」が求められるような働き方は、まったく性に合いませんでした。しかし、組織のなかで評価を得るには、会社のルールに従わなければなりません。それでいて、会社員の自分がどこまで出世したとしても、決して社長にはなれないのです。やはり私は自由が好きだし、お金だって稼ぎたい。それを同時に実現するには、自分が社長になるしかありません。社長になるには、自分の店を持つのが近道だと思いました。私が「店を持とう」と考えたとき、最もイメージしやすかったのが飲食店です。過去に経験してきたバイトのなかでも居酒屋勤務は楽しかったし、料理を作るのも好きでした。よし、将来の独立に向けて、まずは飲食店で修業しよう!そう決めたときに出逢ったのが、麻布十番「鳥善瀬尾」のオープニングスタッフの募集でした。

27歳、焼鳥のキャリアがスタートする。

瀬尾さんのもとで働き始めたのは、私が27歳の頃でした。麻布十番ってどこだ…?当時の私は店の場所さえ知らないまま、「独立希望者募集」の広告に惹かれて応募したのです。そもそも「焼鳥」を提供する店だと知ったのも、瀬尾さんに逢ってからでした。応募の時点では「鶏料理」と書かれているだけで、なんの店かも判らなかったのです。なんだ、焼鳥だったのか…俺でも出来るじゃん!それが私の最初に抱いた感想でした。そう、完全に舐めてかかっていたのです。しかし、実際に焼いてみると、親方の焼鳥とはまったく別の代物が出来上がりました。「鳥善瀬尾」の焼鳥は、江戸の伝統技法「近火強火」を用いて焼き上げます。強火かつ短時間で焼き上げることで、旨味や水分を素材の中に閉じ込め、程よくついた表面の焦げ目が、焼鳥の味わいを深めてくれるのです。素材も火も、まったく同じ条件なのに、焼く人次第でこんなに違いが生じるのか…。私が初めて技術の凄みを思い知った瞬間でした。どんなに頭で理解はできても、なかなか思うようには焼けないものです。やればやるほど上手くできない…。当時はそんな感覚が続いていましたね。麻布十番という土地柄もあり、「鳥善瀬尾」のお客様は、私の父親世代にあたるような年齢層がメインでした。お越しになるのは、それまで私が接する機会のなかったような方々ばかり。各界を動かしているビッグな面々が、大将に逢うために店に訪れるのです。焼鳥ひとつで、こんなにも人を魅了できるものなのか…。私にとっては新鮮な発見でした。

あの頃の親方やお客様が、今の自分を育ててくれた。

過去に経験した仕事に比べて飲食業がラクだったかというと、まったくそんなことはありませんでした。労働時間だって長いし、親方には毎日のように怒られるし…。ただ一点、他の仕事との明確な違いは、目の前の試練や苦労を乗り越えた先に、「自分の店を持つ」という明確な夢が見えていたことでした。それがなければ、きっと続かなかったでしょう。若くて未熟だったので、親方に盾突くことも多々ありました。営業時間中、我慢できずに店を飛び出し、むしゃくしゃしながら煙草をふかしたことも数知れず…。当時の私は親方の真意を理解できず、反発ばかりしていたのです。心のなかでは、いつか必ずこの人を追い越してやると、闘志を燃やしていました。一方の親方は、「いいから頭を冷やしてこい」…と私が落ち着くまで時間をくれたり、「お前はちょっとズレてるぞ」…と静かに諭してくれたり。私がどんなに荒れ狂っても、決して見放すことはしませんでした。あの頃の親方の気持ちは、今の私にはもちろんわかります。言われたことの真意がわかるようになったのは、だいぶ時が経った後のことでした。私という人間は、「鳥善瀬尾」の親方と、お客様の存在に育てていただいたのです。

ついに親方のもとを離れ、新店舗を任される。

2012年秋、国の重要文化財である東京駅丸の内駅舎とともに、東京ステーションホテルがリニューアルされました。私はそのタイミングで、ホテル内の地下1階に出店した「焼鳥 瀬尾」の店主となりました。オーナーの瀬尾さんは、もともと店舗展開には関心のない人でした。過去にも出店の勧誘は多々ありましたが、すべて断ってきたのです。しかし、このときの瀬尾さんは、私の次なるステップのために出店を決意してくれました。お前に来た話だからやってみるか?事の発端は親方が不在の日に、本店で私の焼鳥を召し上がった飲食コンサルの石見さんにいただいた話でした。私はもちろん「やります」と即答しました。やっと親方から離れられる…!独立に近づけると思ったのです(笑)この話が実現しなければ、遅かれ早かれ私は辞めていたでしょう。後に瀬尾さんと話してわかったことですが、当時から親方もそれには気づいていたようです。

「焼鳥 瀬尾」の店主を務めた8年間は、私にとって非常に充実した日々でした。東京駅という好立地ですし、お客様が東京に来た際には必ず顔を出してくださいます。日本全国や海外から、私に逢いに来てくれるのです。そのことが、当時は大きなモチベーションになっていましたね。ときには「本店よりも美味しい」という声もいただき、それが自信にもなりました。施設内の飲食店との関係も良く、ホテルからも高評をいただいていました。最終的にはホテル内で一番の古株店舗となり、営業上もかなりの融通を利かせていただきました。

MUGENの代表、内山正宏との出逢い。

内山さんに出逢ったのは2021年、ちょうど私の独立が頓挫していたタイミングでした。当初の予定では、今ごろ日比谷の商業施設へ出店しているはずでした。ところが…。物件、資金調達、人材、営業に関する条件など、すべてにおいて問題が浮上してきたのです。こんな状況で開業しても、きっと失敗するだろうな…。そう思った私は、すべてを白紙に戻す決意をしました。さまざまなトラブルに見舞われたことで、精神的にも疲れてしまったのです。満を持しての独立ということで、既に前職を辞めていた私は、翌日から急に暇になってしまいました。それから約1年後、この先どうしようかと悩んでいた際に、救世主のごとく現れたのが内山さんでした。このときも、石見さんが瀬尾さんに連絡されたのをきっかけに、有難いご縁が繋がったのでした。

当時の内山さんは、既に銀座で契約していた物件での新規出店に向け、業態を探しているタイミングでした。その物件は2021年夏、コロナ禍において当初の計画よりも規模を縮小してオープンを迎えた「銀座 稲葉」の半分のスペースだったのです。初対面は「銀座 稲葉」にて、紹介者の石見さん、内山さん、私の3名で食事をしました。内山さんの第一印象は、「めっちゃ優しいお兄ちゃん」という感じ!(実際に年齢も近いのです。)内山さんの笑顔って、本当に最強なんですよね。とにかく人を惹きつける魅力がヤバイんです。出逢って数分も経たないうちに、私の心は決まっていました。内山さんも同じ気持ちだったようで、当時まだスケルトン状態だった物件を私に見せてくださいました。平野さんの焼鳥、ぜひやりましょう!独立が頓挫する過程では苦い経験をしましたが、結果的に最高のご縁に恵まれたことに心から感謝しています。

「コロナ禍」を成長の糧に変えたMUGENの底力。

将来の独立はもちろん、自己の成長を考えるなら、どんな環境に身を置くかという観点は非常に重要だと思います。MUGENは店舗数・従業員数ともに一定の規模があるだけでなく、居酒屋、鮨、天婦羅、和食、焼鳥と、業態や価格帯においてもバリエーションに富んだユニークな会社です。「天婦羅みやしろ」のようなミシュラン受賞店舗をはじめ、社内には各分野で匠の技を誇る先輩たちが揃っています。一方で、まったくの未経験から鮨職人を志し、続々とカウンターデビューを果たしている若手メンバーたちもいます。自身の適性を知るうえでも社内に多様な選択肢があり、さまざまなキャリアを歩んできた先輩たちから学べる環境は、とても恵まれていると思います。また、人材の採用や育成、マネジメント、ブランディング、集客マーケティングなど、あらゆる経験値やノウハウが社内に蓄積されているので、独立を目指す人には特に学ぶべきことが多い環境でしょう。私が驚いたのは、メニュー開発や勉強会など、コロナ禍においても新たな取り組みが社内で次々に生まれていることでした。このような環境で若いうちから学び続けていたら、得られる未来はきっと変わるはずです。コロナ禍を経験した私たちは、業界全体を揺るがすような危機がいつでも起こり得るという厳しい現実を知りました。国や政府が助けてくれるわけではないからこそ、日頃の微差が有事のときの大差になると思います。店舗の数字管理などはまさにそうで、非常時にこそ平常時からの小さな積み重ねが結果を分けるはずです。コロナ禍が落ち着いた今、外食企業の明暗は二極化しているように見えます。この数年間、着実に足場を固めてきたMUGENは、今秋から続々と攻めの出店を迎えます。この業界で力をつけたいと思う方は、会社が採用に積極的な今、ぜひともチャンスを掴んで欲しいと思います。

「焼鳥 ひら野」のこれから。

内山さんに出逢う前、私は自身の独立開業に向けて会社名を決めていました。その名も、「SUSTY Tradition(サスティー・トラディション)」。「Tradition」は「伝統」を意味する英単語、「SUSTY」は私の造語です。「江戸の食の四天王」といえば通常、「すし(S)、うなぎ(U)、そば(S)、てんぷら(T)」を思い浮かべますよね。それら4つの頭文字に、私が勝手に「やきとり」の(Y)を加えたのが「SUSTY」という造語です。この言葉には、長らく培われてきた焼鳥の文化・伝統を継承しながら、従来の四天王に肩を並べるような焼鳥のニューノーマルを自分の手で創りたい!…そんな私の想いが込められています。平野さんが描いたそのビジョン、僕らと一緒に必ず実現させましょう!…MUGENという強力なパートナーを得たことで、私にとって夢の実現に向かうスピードが、一気に加速しそうな予感がしています。また近い将来、「焼鳥 ひら野」を起点に、もう一つのニューノーマルが実現しているかもしれません。内山さんと構想しているのは、経験の有無や年齢に関わらず、若いメンバーが一人前の焼き手へと成長し、デビューを遂げていくためのプロジェクトです。とはいえ、「焼鳥 ひら野」は開業してからまだ1年弱のお店です。大きな夢を叶えるためにも、まずは一日一日の積み重ねから…。一緒に働く仲間とも、時間をかけてようやく絆が深まってきたところです。今後の「焼鳥 ひら野」の躍進に、ぜひともご期待ください。

※MUGENでは、社長は肩書きではなく名前で呼ばれています。

プロジェクト第4号店

住所 〒104-0061
東京都中央区銀座8-12-15 1F
電話番号 03-6281-5958
営業時間 Dinner:16:00~23:00
※状況により変更させていただく場合がございます。
定休日 日曜日
座席数 カウンター12席 / 個室1室(最大6名)
HP https://www.yakitori-hirano.tokyo/