日本料理の匠 稲葉 正信

銀座 稲葉

稲葉 正信

一流ホテルの総料理長から店主へ。和食の可能性を広げる職人

1967年、東京都生まれ。六本木「グランドハイアット東京」の開業に伴って、寿司「六緑」の副料理長に。その後、汐留「コンラッド東京」の日本料理「風花」のオープンに参画し、2010年に総料理長に就任。2016年には三重・伊勢志摩のリゾート「アマネム」の総料理長となり、その朝食を米国の雑誌「BRIDES」における“The Best Hotel Breakfasts in the world”に導く。そして現在は【銀座 稲葉】で腕をふるう。

インタビュー

大学進学を断念し、自立するために料理の道へ。

18歳のとき、私は浅草にある日本料理店に就職しました。料理人を目指して、自ら積極的に選んだ進路ではありません。高校に通い始めた当初は、卒業後に進学するつもりでいました。しかし、実家の寿司屋の経営が傾き始めたため、すぐに就職することにしたのです。奨学金を借りるという選択肢もありましたが、そこまでして勉強したい理由もありませんでした。その頃には、母親が祖父からお金を借りる姿や、空席が続く店内を見ていたので、両親に負担をかけないように、早く自立しようと考えたのです。とはいえ、私が通っていた高校は大学付属校のため就職先を紹介する機能はありませんでした。将来の夢も見つかっていなかった私は、いざ就職先を探すべき状況になって、それまで自分が何も考えてこなかったという現実に直面したのです。「これからは寿司ではなく和食へ行きなさい」…結果的に父の紹介を頼り、浅草にあった日本料理店に就職しました。

やるからには「絶対に1番になる」と決めていた。

鞄ひとつで寮に入り、修業の日々が始まりました。当初はやりたいことが見つかったら、いずれ辞めるつもりでいました。一方で、やるからには絶対に1番になると決めていたので、必死になって働きました。朝から晩まで店にいて、休みも年に3日ほど。いわゆる「タコ部屋」生活だったので、何をするにも先輩たちが優先でした。テレビがあっても、自分の観たいチャンネルなんて選べません。また、当時はインターネットも携帯電話もない時代です。現代のように、スマホを通して次々と情報が飛び込んでくるような環境だったら、私も他の選択肢に惑わされていたかもしれません。刺激の少ない閉鎖的な環境が、結果的に私を仕事に集中させてくれました。ちなみに最初の就職先は、精肉事業を営む会社が運営している割烹料理店でした。和食に肉料理を加えることが一般的にはご法度とされている時代に、そのお店ではコースに必ず一品の肉料理を提供していました。その頃に培った経験が、現在の私の料理にも活かされています。

27歳、街場の和食業態にて料理長を務める。

27歳のとき、私は新宿ワシントンホテルにテナントとして入っていた和食業態の料理長に抜擢されました。3人の後輩を率いて、新たな環境に飛び込んだのです。その若さで料理長になれたのは、運や人に恵まれたことはもちろんですが、私自身がある意味で誰よりも欲深く、臆病だったからかもしれません。やるからには1番になる!そう決意して仕事をしてきた私には、「逃げる」という選択肢がありませんでした。たとえば目の前に2つの選択肢が現れたとき、私は常に厳しいほうの道を選んできました。本心ではもちろん、ラクな道に進みたいのです。しかし、安易な道に一度でも逃げれば、すべてが終わってしまうような気がしていました。それまで積み上げてきたものを失ってしまうかのような、漠然とした恐怖心があったのです。現状に満足したくても、臆病な性分のせいでそれが出来ませんでした。もっと、もっとやらなくては…。今でもその傾向は変わらないので、この闘いがいつまで続くのだろうと思うこともあります(笑)一方で、困難な道を選び、それをクリアしたときには、得られる喜びも倍になることもまた事実なのです。高みに挑んだからこそ、過去の選択が自分を想像以上の成功や素晴らしい出逢いへと導いてくれる。私は経験を通して、そのことを学んできました。

技術や経験を培った先に、ようやく見える世界がある。

やりたいことが見つかったら辞めよう…。そのつもりでこの世界に飛び込んだ私ですが、30歳を迎える頃には、料理人として生きていくことに確信を持つようになっていました。それは、時間をかけて技術が身につき、料理を通して見える世界が変わったこと、また料理長という立場になり、少なからず自分を表現できる範囲が拡がったことが要因でした。自身の存在意義は、この世界にいるからこそ発揮できるということ、料理の可能性は、自分次第でどこまでも追求できるということに気づいたのです。若い頃の私は、「お金が欲しい」「時間が欲しい」「人に指図されたくない」「自分をもっと表現したい」など、とにかく自由を求めてもがいていました。だからこそ少しでも早く昇格するために、人一倍の努力をしたのです。技術や経験、そして共に走ってくれる仲間がいなければ、この世界で自由を手にすることはできません。若い頃はつい結果を焦ってしまいがちですが、求める果実を得るまでには、それなりの時間がかかるものです。

料理人を志す方が、この世界で輝くために重要なこと。

この世界で活躍するためには、料理が「好き」だという気持ちは大事なことです。しかし、私はそれ以上に、自分の人生をどのようにデザインしていきたいのかという視点を持つことが重要だと思っています。それがなければ日々の業務に翻弄されて、自分を見失いかねないからです。特に今の時代は、スマホを通じてあらゆる情報が飛び込んで来ます。料理を通して、自分は何を実現していきたいのか。そのことを自身に問い続け、その時々で揺るぎない答えを持っていなければ、迷ってしまう状況などいくらでもあります。私だって駆け出しの頃は、朝から晩まで働きながら、まったく割に合わない仕事だとよく思ったものです(笑)そのたびに私を支えてくれたのは、実家の寿司屋の経営が傾いたときの原体験でした。自分がこの世界に入ったからには、必ずビジネスを心得た料理人になろうと誓ったのです。それはいつしか料理を通して自分を表現することの喜びに変わっていったのですが…。自分の軸や方向性が定まっていれば、日々の現場に夢や希望、お金やチャンスが転がっていることに気づくことができるはずです。いかにそれらを見つけて拾い上げていけるか。それがこの世界で活躍するための鍵になると思います。料理人ほど自己表現の機会に富んだ面白い仕事はないですよ。まして自分のお店を持てるのであれば、なおさらのことです。実にクリエイティブでやり甲斐に満ちた、素晴らしい職業だと思います。

独立の動機は、表現の追求と、若いメンバーの未来を創るため。

私は「銀座 稲葉」の店主となるまで、主にホテルの世界で経験を積んできました。「グランドハイアット東京(副料理長)」「コンラッド東京(日本料理の総料理長)」、そして「アマネム(総料理長)」と、たいへん有難いことに、その時々の自分にとって、新たな挑戦や刺激に満ちた素晴らしいご縁に恵まれてきたのです。

さて、次は何をしようか…?「アマネム」の総料理長として伊勢志摩に赴任して、約2年の月日が経った頃のことです。アマンにとって日本初となるリゾートの開業に、仲間と共に貢献できたという充実感がありました。何か一段落を迎えると、私はいつも次なる欲求が芽生えてきます。培ってきた経験を活かして、もっと素晴らしいお店を創りたい!もっと新しい表現を追求したい…!一方で、ホテルにおける自身のキャリアには、ある種の限界を感じていました。現状の延長線上にある選択肢には、自分の想像を超えるほどの刺激や経験はもう存在しないだろうな…。たゆまぬ情熱や好奇心を真の意味で満たすためには、もはや自分の店を持つしかないと感じていました。ホテルの総料理長になって、わざわざ独立を考える人間は少ないと思います。そこがまさに、私の欲深いところかもしれません。自分を慕ってくれる若いメンバーの未来のためにも、より刺激的で経験値が上がるようなキャリアの道すじを創ってあげたい…。そう強く思ったのも、独立を考えた理由の一つでした。

MUGENの代表、内山正宏との出逢い。

内山さんに初めてお逢いしたのは2019年、場所はベトナムのゴルフ場でした(笑)内山さんは現地人オーナーが出店する炉端焼き「Shamoji」のプロデュースで、一方の私は高級業態のプロデュースで、同時期にベトナム入りしていたのです。その際に、月の井酒造の坂本社長にご紹介をいただきました。

再会したのは2020年2月、私がアマン東京のイベント「テイスト オブ アマネム」の開催を担っていた日に、内山さんと坂本社長にお越しいただきました。当時の私は独立準備を進めており、2年かけて銀座に理想の物件を見つけていました。ところが、いざ契約のタイミングを迎えたとき、当初の計画が頓挫してしまったのです。時はちょうど、新型コロナウィルスの感染者数が海外で拡大し始めた頃でした。世界的なパンデミックの到来が予想され、業界の先行きが不透明になったことで、出資者の方が辞退されることになったのです。イベント当日、私の状況を知った内山さんは、その日の夜にお電話をくださいました。なんと銀座の物件での私の開業に、内山さんが出資のご提案をくださったのです。当時といえば、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」で乗客の集団感染が発生し、盛んに報道されている時期でした。日本での感染拡大が心配されるなか、銀座の50坪の物件での開業は、大きなリスクを伴う投資になります。それにも関わらず、すぐにご連絡をくださった内山さんの決断力には本当に驚かされました。ごく限られた接点のなかで私を深く信頼し、パートナーとして選んでくださったことに、今でも心から感謝しています。

コロナ禍に翻弄された、「銀座 稲葉」開業までの紆余曲折。

内山さんは2020年3月、銀座の物件を契約してくださいました。当初の開業予定は翌年の9月。それまでの期間も家賃が発生するわけですが、私がどうしてもと執着していた物件だったがために、すぐに取得に動いてくださったのです。物件を契約した翌日には全国の学校に対して、感染拡大防止のための臨時休校の要請が政府から発令されました。とはいえ翌年の開業を迎える頃には、さすがにコロナ禍も落ち着くだろうと考えていたのです。ところが…。4月から始まった初回の緊急事態宣言の発令を皮切りに、度重なる発令と期間の延長、飲食店に対する休業要請、時短要請、酒類提供の自粛要請など、想定を遥かに超えた厳しい状況が続くことになったのです。最終的には2021年7月、「銀座 稲葉」は開業を迎えるのですが、その間にはグループ店舗の売上の激減や撤退など、会社としてはこのプロジェクトを中止せざるを得ないような危機的状況が続いていたのです。内山さんは開業までの期間、何度も大家さんのもとへ足を運ばれていました。当面の開業が見込めない状況を大家さんに誠実にお伝えいただいたことで、開業までは共益費のみの支払いでご了承いただくという有難いご協力を得ることができました。先行きがまったく見えなかったこの期間、本当の意味で恐怖を味わっていたのは内山さんだったと思います。経営判断をされるには相当悩まれたと思いますが、最終的には当初予定していた半分の広さで、「銀座 稲葉」を開業する決断をいただいたのです。

MUGENと共に、大きなビジョンを実現するために。

内山さんをはじめ、多くの方々のご縁に救われ、「銀座 稲葉」の開業は実現しました。前代未聞のコロナ禍においては、いよいよ開業を断念せざるを得ないような危機的状況にも見舞われました。だからこそ、ようやく念願の物件での開業が叶った今、私はこのお店を絶対に成功させなければなりません。

料理人の独立にはさまざまな形がありますが、私はMUGENというパートナーを得たことで、自分が料理を通して実現したいことに全力投球できる環境を手に入れました。内山さんは料理人からキャリアをスタートされ、経営者の道へと進まれた方です。それは私ではなく、彼にしかできないことです。一方の私にも、料理人の自分にしかできない役割があると思っています。それぞれが培ってきた知見や強みを融合させ、大きなビジョンを一緒に実現するためのパートナーとして、私たちは互いに手を組みました。開業にあたり、内山さんと一緒に立ち上げた会社の名は、私たち2人の名前の読みを用いて「MASA」にしました。ローマ字表記にしたのは海外展開を見据えているからです。不思議な巡り合せとなりましたが、結果的に私にとって理想的な独立の形になったと思います。

「銀座 稲葉」のこれから。

「銀座 稲葉」は単に美味しい「料理」が食べられる店ではなく、足を運ぶたびにお客様の体験価値が高まるような、楽しく豊かな空間でありたいと思っています。飲食業は、同時にサービス業でもあります。お客様に最高の時間を提供するためのアイテムとして、料理やお酒、私たちのおもてなしが存在するのです。私は創造の限りを尽くして、素晴らしいお店をつくることが大好きです。それは「銀座 稲葉」においても、飲食店のプロデュース業務を担う際にも同様です。もはやプライベートでさえ、私はひとたび料理やお店を前にすると、アイデアや思考が止まらなくなってしまうくらいです。自身が料理人であることが、私のプロデューサーとしての強みだと思います。自らが現場に立って料理を作ることができ、店舗を成功させるところまで導けるプロデューサーは業界においても稀な存在です。一方で翻せば、自店舗の成功があってこそ、プロデュース業にも説得力が生まれるのです。「銀座 稲葉」がひときわ輝く存在であり続けるために、初心を忘れず、仲間と共に精進してまいりたいと思います。

MUGENの魅力は、人を育てる奥行きの深さにある。

私たちにとって、人が育っていくのは本当に嬉しいことです。MUGENがむやみに規模を拡大しないのは、内山さんが人を育てることに重きを置いて会社を経営されているからだと思います。私が感じるMUGENの良さは、その奥行きの深さです。たとえばMUGENには、居酒屋、鮨、天婦羅、焼鳥、和食と、グループ内に幅広い業態があります。「和」に統一された業態のなかで、自分の興味や適性に合った活躍のステージを探せることは、キャリアの選択肢や可能性を拡げるうえで非常に恵まれた環境だと思います。先入観を捨てれば、自分の意外な適性が見つかるかもしれません。また、価格帯のバリエーションに富んでいることも、料理人には非常に刺激的な環境と言えます。ちなみに高単価の料理を作れるほうがスキルの価値が高いかというと、決してそんなことはありません。私たちには居酒屋の単価で小鉢を作ることはできないし、1万円で納得の懐石料理を構成できるのなら、それは素晴らしい能力なのです。料理の表現力を評価する際に、価格の高低に優劣はありません。価格帯によって使える食材、必要な技術や目利き力が変わるからこそ、料理人としての腕が問われるのです。社内には、各業態や価格帯ごとに、高い商品開発力やセンスを持った先輩がいるので、積極的に学ばせてもらうと良いでしょう。私の知識や経験で良ければ、仲間には喜んでお伝えするつもりです。これからは、人を育てることが我々の役割です。たとえば海外で活躍したいとか、内山さんのように将来的には経営者になりたいとか、制限なんて何もないのです。MUGENには、想いやビジョンを持つ人に、活躍のステージを与えてくれる文化があります。近い将来、従来の常識に囚われないニュータイプの飲食人が、社内に誕生してくれたら嬉しいですね。

※MUGENでは、社長は肩書きではなく名前で呼ばれています。

プロジェクト第3号店

住所 〒104-0061
東京都中央区銀座8-12-15 1F
電話番号 03-6260-6568
営業時間 朝食:平日:10:30〜の部
■土:9:00〜の部、10:30〜の部
Dinner:17:00~
定休日 不定休
座席数 カウンター8席 / 個室4席×2(8席にすることも可)
HP https://www.ginza-inaba.tokyo/