天婦羅の匠 宮代 直亮

天婦羅 みやしろ

宮代 直亮

匠の技を使い、サクッと揚げた天ぷらでゲストをもてなす和の職人

1967年、神奈川県生まれ。友達と一緒に横浜調理師専門学校に進学。
卒業後、池袋のホテルメトロポリタンで修業、横浜のロイヤルパークホテルで経験を積む。お台場のホテル日航東京内にある【さくら】では、天ぷらカウンターの立ち上げ、料理長を務める。ヒルトン東京お台場の料理長を経て、2018年、株式会社MUGENに入社。2018年5月から【天婦羅 みやしろ】にて主に天ぷらを担当している。

インタビュー

意図せず飛び込んだ料理の世界に魅せられ、一生の仕事に。

私は昔から料理が好きだったとか得意だったとか、明確な動機を持って外食の世界に入った人間ではありません。料理に出逢ったのも、それが最初の仕事になったのも、まったくの偶然でした。しかし、人生とは不思議なものですね。そんな自分がいつしか料理の奥深さに魅了され、気づけば一生の仕事にしているのですから。

私は横浜で土木事務所を営む家系の長男として生まれました。家業の後継ぎを父から強いられたことはありませんでしたが、いずれは自分が継ぐのだろうと思っていました。とはいえ、高校を卒業した時点では、将来について何ひとつ考えていない状態でした。大学へ行く頭もなければ、すぐに就職する気にもなれない…。そんな折、仲の良い友人が横浜調理師専門学校へ行くというので、私も入学することにしたのです。その時点では、家で包丁を握ったことすらありませんでした。当時の専門学校には専攻がなく、和・洋・中すべてのジャンルを一通り学べる環境があったと記憶しています。しかし、なんの目的もなく入学した私は、お世辞にもマジメな学生とは言えませんでした。授業をサボってパチンコに行ったり、バイクをいじって遊んでいたり…。調理実習の日にだけ、試食を楽しみに顔を出していたような不良学生でした(笑)

就職活動なし!気づいたらホテルの調理場で働いていた。

専門学校の卒業が迫り、同級生の就職先が決まっていっても、私は相変わらず遊んでばかりいました。当時は飲食業に就職する気もなかったので、たまのバイトも部品組み立て作業の夜勤など、料理とはまったく無関係の仕事をしていました。

そんなある日のこと。父親のもとに、ホテルメトロポリタン東京池袋の和食業態の料理長が人を探しているという相談が入りました。「それならウチに、就活もせずにプラプラしている奴がいるよ」…という話になったようで、なぜか私が行くことになったのです。指定された日に店舗へ向かうと、料理長への挨拶もそこそこに、先輩から着替えを渡されました。そして初日から、まさかの終電がなくなるまで働かされたのです(笑)翌朝は先輩の家から再び出勤。そのまま学校も行かずに働き続け、卒業と同時に流れで就職してしまいました。最初の約3年間は掃除や洗い場など、いわゆる下積みの仕事を繰り返す日々でした。私は入社当初から毎日のように辞めたいと訴え続けていましたが、料理長にはまったく取り合ってもらえませんでした。いつになっても、「明日になったら話を聞いてやるよ」…の一点張り。そこで逃げるのも悔しいので、遅刻も欠勤も一切せず、新人時代は朝一番に出勤して、夜遅くまで働き通しました。そのうち徐々に、調理場の仕事を任されるようになっていきました。

人生で初めて、仕事の喜びに震えた瞬間。

営業時間中、いつものように焼き場に立っていると、仲居の女性から不意に一枚の紙ナプキンを渡されました。何かと思って手を停めると、そこにはお席で食事をされているお客様からの直筆のメッセージが書かれていました。当時の私はコース料理の焼き物など、まだほんの一部を任されている段階でした。しかし、私が手がけた一品を召し上がったお客様がいたく感動されて、「この料理を作った人に渡して」と、わざわざキッチンにいる私のもとへ想いを届けてくださったのです。あのときは、思いもよらぬお客様の反応に触れて、本当に嬉しかったですね。料理って面白いなぁ…。私にとって、初めてこの仕事の醍醐味を味わうことができた、忘れられない瞬間でした。

ホテルメトロポリタンを辞めたのは、料理長(おやじ)がようやく認めてくれたからでした。1993年、横浜ランドマークタワーが開業するタイミングで、ちょうど和食業態のキッチンスタッフを募集していたのです。私がずっと横浜に帰りたがっていたことを知っていたおやじは、「お前は一通りの仕事もできるようになったし、この機会にオープンから入って勉強しろ」と、快く送り出してくれました。

MUGENの代表、内山正宏との出逢い。

内山さんとの出逢いは、今から約30年前に遡ります。私が横浜ロイヤルパークホテルの日本料理「四季亭」のオープニングメンバーとして現場に入ったとき、新入社員1期生として入社してきたのが内山さんでした。当時の新人が3名いたなかで、彼がいちばん可愛い後輩でしたね。不器用だし、料理だって全然できない。でも誰よりも愛嬌があって、私が最も仕事を教えた後輩でした。ときには「腹筋を鍛えてやるよ」…なんて言って、ダクトにぶら下げて腹パンをお見舞いしたことも…(笑)一緒に働いたのはごく短い期間でしたが、彼との楽しかった思い出はたくさんあります(内山さんがどう思っているかはわかりませんが)。その後は系列店舗へそれぞれ異動し、また別々の道を歩むなかで、次第に疎遠になっていきました。

時を経て、「天婦羅みやしろ」の出店につながる運命的な再会を果たす。

それから17~18年ほど経った頃でしょうか。後輩の結婚式の会場で、内山さんに久々に再会しました。「宮代さん、ボク起業したんですよ!居酒屋をやっているんです」当時は私がホテル日航東京に勤めている時代で、「そうか、頑張れよ~!」なんて言って別れたことを覚えています。それっきり逢うことはありませんでしたが、たまたま共通の友人の店に内山さんが訪れた際に、宴席で私のことが話題になったようで、その場で電話をくれたことがありました。時を経ても変わらず私のことを慕ってくれているようで、非常に嬉しかったものです。

ご縁が再び繋がったのは2016年、MUGENが「鮨つきうだ」をオープンしてまもない頃でした。偶然にも、私の後輩が「鮨つきうだ」の立ち上げを手伝っていて、それを聞いた内山さんから電話がかかってきたのです。その場で「鮨つきうだ」に招待いただく流れになり、カウンターで久々の再会となりました。内山、すごいなぁ…。出逢った当時の若くて可愛かった後輩が、時を経て立派な経営者になっていました。こんな形で再会する日が訪れるとは思いもしなかったので、実に感慨深い夜でしたね。当時の私は仕事にやり甲斐を見出せず、常に辞めたいと思いながら働いていました。なぜなら、自分が何より好きなはずの料理の現場から、ずっと離れていたからです。きっかけは、勤めていたホテル日航東京の経営がヒルトンへと変わったことでした。経営母体が変わった瞬間、料理長の私が現場に立つことはなくなりました。仕事といえば、事務所で食材原価の計算やメニューの構成をしたり、外国人だらけの会議に参加したり…。現場に立てないばかりか、まったく向いていない仕事を任されていたのです。役職者なので給料は良かったものの、あまりに退屈な日々に嫌気がさしていました。内山さんには鮨をご馳走になったあと、「なかめのてっぺん本店」にも連れて行ってもらいました。私がそこで目にしたのは、活気ある店内にお客様の楽しそうな姿、そして、生き生きと働いている店舗メンバーの表情でした。MUGENで働く人たちは、自ら食材を仕入れて当日の「おすすめメニュー」を手書きで作り、お客様に提案しているというのです。

一方の私がホテルで担っているのは、食材のコストコントロールばかり。魚を3枚発注したくても、現場には2枚で対応させなければならないような仕事なのです。いいなぁ…俺も、こんな楽しそうな店で料理がしたいよ。内山、俺を雇ってくれよ…。それは心の底から出た言葉でしたが、内山さんは当初、まさか私が本気で望んでいるとは思わなかったようです。後日お電話をいただいた際に、改めて入社の意思をお伝えしました。せっかくなら、宮代さんの料理を活かせるお店を出しましょう。内山さんには、将来的なビジョンを共有いただき、まずはMUGENの全社員やキャスト、パートナー企業の方々が一堂に会する年初の方針発表会に参加するところからスタートしました。

入社後1年間、居酒屋の現場で再び料理ができる喜びを味わう。

とにかく料理をさせて欲しい。料理ができるなら何だってやります…!入社当初、そう訴え続ける私に、内山さんは「なかめのてっぺん 名古屋ゲートタワープラザ店」のオープニングスタッフの業務を任せてくださいました。内山さんには、ホテル時代と同等の給料を入社当初から保証いただく代わりに、一つの条件を提示されていました。それは、出店するまでの一定期間、グループ内の居酒屋業態の店舗に入り、既存の社員やキャストと共に現場の業務を経験することでした。まずは宮代という人間を社内のメンバーに知ってもらい、私の名前で出す店を、仲間として心から応援してもらえるような関係性を築くこと。それは、「鮨つきうだ」をオープンする際にも月生田さんが果たしてきた約束であり、会社として大切にしている考え方でもありました。新規出店に投資ができるのは、既存の居酒屋業態の売上があってこそ。だから、それは当然のことだと感じましたし、私としては居酒屋だろうが料亭だろうが、とにかく再び料理ができるのなら喜んでやりたい気持ちでした。料理というのは作り手の腕次第で、一つの食材がいかようにも変化する奥深いものです。長らく現場を離れていた私は、とにかくその喜びを再び味わえる機会を渇望していたのです。

2017年4月1日、私の名古屋での仕事がスタートしました。これが本当に楽しかった!久しぶりにキッチンに立ち、食材に触れ、現場の仲間と声を掛け合い、目が回るような忙しい時間を過ごすこと…。当時はまるで、自分が生き返ったかのような心地がしました。私は誰よりも早く出勤して、自分が店舗を開錠すると心に決めていました。営業前の朝礼では年甲斐もなく大声で叫んで、毎回のように咳込んでいましたね(笑)入社後の約1年間、グループ内の各店舗を回り、現場の仲間と共に仕事をしました。私にとってその充実度ときたら、「もう、ずっと居酒屋勤務でも構いません」…なんて言って、内山さんを苦笑いさせるほどのものでした(笑)

中目黒の一軒家を改装し、「天婦羅みやしろ」をオープン。

「宮代さん、天ぷらはどうなんですか?」…出店準備に入る頃、ふと内山さんに聞かれたことがありました。「天ぷらは得意ですよ。ホテル日航東京時代に天ぷらカウンターの立ち上げも担いましたし、広尾にある名店の大将に、ゼロから天ぷらを教えたのは自分です」…このときの会話が、和食業態での出店を模索していたなか、「天婦羅みやしろ」としての出店が決まった瞬間でした。

そして、あるとき内山さんに案内されたのが、中目黒にある現在の「天婦羅みやしろ」の物件でした。それは、まさかの築100年の長屋!トタン囲いの外観の、およそ飲食店には見えない古びた建物だったのです。「宮代さん、ここでやったら面白くないですか?」…そう嬉しそうに語る内山さんを見て、改めて常人ではないなと感じました。店づくりに関して私がお願いしたのは、水槽を設置することと、ガス台の高さに関してのみです。内山さんとスタジオムーンの金子さんの力によって、あの古びた外観からは想像もつかないような粋な内装空間が生まれたのです。実際に、初めてご来店されたお客様は、店の外観と内装とのギャップに心から感動されます。内山さんには、この情景が最初から見えていたんですね。自分の店を成功させたいと考える料理人には、その腕前の良さは大前提として、コンセプトや事業計画づくり、物件の選定、店舗のデザインなど、総合的なプロデューサーの協力が必要になるものです。私は幸運にも内山さんに出逢えたことで、自分の力では決して得られなかった好条件でのスタートを切ることができました。

オープン後は、すべてが「初めて」の連続だった。

2018年5月、多くの方々に支えられて、「天婦羅みやしろ」はオープンを迎えました。そこからは、ホテルでの勤務経験しかなかった私にとって、初めての挑戦の連続でした。そもそもカウンターでの接客自体、まったく経験がなかったのです。当初は女将の飯島に、私の言葉づかいについてひどく叱られたものです。「宮代さん、お客様にそんな口の利き方をしては絶対にダメです!言葉づかいが浜っ子すぎます」…今となっては笑い話ですが、当時は丁寧な言葉で話そうとするとお客様の前で噛んでしまうし、慣れるまでは本当に苦労しました。ホテル時代にはお客様を前に、自ら料理の説明をすることも、カウンター越しに会話をする機会もありませんでした。しかし、「天婦羅みやしろ」にご来店されるお客様は、当然ですが料理の味だけを求めてお越しになるわけではありません。扉を開けてからお店を後にするまで、その空間や店主との会話、スタッフの所作、天婦羅を揚げる音、味や香り、お酒の知識や器にわたるまで、五感を満足させるあらゆる演出、おもてなしが求められるのです。

それから何より苦労したのが集客でした。ホテル時代はもちろん、自ら集客をする必要はありませんでした。開店当初は内山さんの繋がりで多くのお客様にお越しいただきましたが、新規のお客様のご来店がなければ、店舗を存続することはできません。「天婦羅」というジャンルの特性上、どんなに好きな方でも、一般的には週に何度も口にするような料理ではありません。まずはお店を知っていただくために、メンバーと中目黒駅でビラ配りをしたり、近所でポスティングをしたり、ランチタイムに天丼を提供したりと、あらゆる施策を試みました。友人に声をかけると言っても、気軽に呼べるような価格帯でもないわけです。それまでSNSとは無縁だった私ですが、若手メンバーに教えてもらいながら手探りで発信を始めたのもこの頃からでした。

オープンから1年半で、悲願のミシュラン1つ星を獲得。

2019年11月末、「天婦羅みやしろ」は初のミシュラン1つ星(2020)を獲得することができました。受賞店舗の候補に挙がったという知らせを受けた段階では、もはや自分たちが半信半疑の状態でした。なにしろ年初の時点では、予算未達の厳しい日々が続いていたのです。この状況が年内まで続くようなら、お店を閉めるという判断もしなければなりませんね…。ある日の経営会議では、このような会話がなされたこともあったのです。もはや後には引けない状況にまで来ていました。お客様が少ない現状のなかで、いかに満足度を高めてお帰りいただけるか。カウンターでの会話には相変わらず自信がありませんでしたが、そのぶん一つひとつの料理には気持ちを込めて提供していました。当時の内山さんは、たとえどんな状況でも、「絶対に大丈夫だ」と私たちを鼓舞してくださいました。このクオリティのサービスと料理を提供していたら、「天婦羅みやしろ」は必ず繁盛店になります。宮代さん自身がブレることなく、それを信じ切れるかどうかですよ…と。会社としても、あらゆる施策を打ってくださいました。たとえば、クラウドファンディング『マクアケ』を活用した集客戦略の展開。これを機に、堀江貴文さんなどの著名人がご来店になり、徐々にテレビ取材も入るようになりました。このように、多くの方々のご協力やご縁、諦めずに取り組んでくれた店舗メンバーの日々の試行錯誤の積み重ねが、結果的にミシュラン一つ星の獲得へと繋がったと思っています。私一人の力では、決して成し得ないものでした。ミシュランの受賞は、あくまで通過点です。その後もコロナ禍の到来をはじめ、厳しい局面は多々ありましたし、今後もきっと訪れるでしょう。しかし、結果が出ずに苦しいときも、ご来店された一人ひとりのお客様に今日一日、100%の料理とサービスを提供できたと断言できるような仕事を続けること。その大切さを、私たちはこの機会に学ぶことができました。

社歴の長さや経験の有無に関係なく、チャレンジできる環境がある。

ホテルの料理長時代に手がけたのは食材の原価計算くらいのもので、MUGENに入社してからのほうが圧倒的に細かい数字管理を担うようになりました。MUGENでは、食材原価から人件費、家賃、販管費、客数、客単価にわたるまで、すべてのデータが開示されており、各店舗の数字には誰もがアクセスできる環境になっています。店舗運営の課題を数字から見出そうとする取り組みなど、ホテル時代には経験したことがありませんでした。やはりホテルというのは宴会や婚礼、宿泊事業がメインですし、レストラン部門の集客やマーケティング機能は、店舗スタッフの業務とは切り離されています。一方でMUGENは、新たなシステムやサービスを積極的に導入する会社でもあるので、データをもとに仮説を立てたり、新しい情報を常にキャッチアップできたりと、自分次第で多くのことが学べる環境だと感じています。外食の世界で活躍したいと考えるなら、ホテルや町場の店にいるより、MUGENのほうが若いうちから多くのチャンスが得られると思います。この数年の間に、グループ内には「鮨おにかい」という業態が立ち上がり、若手メンバーが経験の有無や社歴の長さに関わらず鮨職人としてデビューできる体制が整いました。しかし、そのプロジェクトが始まる前から、手を挙げた人にはチャンスを与えるという文化が社内に根付いていました。任されたからには当然、責任が伴います。求められるレベルは高いですし、内山さんや仲間からの信用を得るにはそれなりに苦労も必要でしょう。でも、やり切った先には必ず、想像を超えた世界が見えてくるものです。実際に、料理がしたいという一心で入社してきた私に、その想いや能力を最大限に発揮できるステージを、会社が提供してくれましたから。

いま、仕事を通じて最も喜びを感じる瞬間とは…?

やはりお客様が料理を口にして、表情が変わる瞬間に立ち会えたときでしょうか。口に運んだ直後に笑顔になったり、鼻の穴が膨らんだり、深くうなずいたり…。人によってリアクションはさまざまですが、その姿を間近で見られることほど無上の喜びはありません。これは私がカウンターに立たなければ、決して味わうことのできない感情でした。好きなことを職業にできること、それがさらに、目の前の人を喜ばせることができるのなら、これほど幸せなことはないと思っています。

「天婦羅みやしろ」のこれから。

「天婦羅みやしろ」はおかげさまで、今年で6年目を迎えました。ミシュラン一つ星を受賞してからは、世界中から多くのお客様が足を運んでくださる店になりました。「再び料理がしたい」という想いだけで入社した私が、初めてカウンターでの接客を担う立場になり、今となっては拙いながらも英語で料理の説明をしています。自分の人生にこのような未来が訪れるとは、まったく想像していませんでした。私の前職の後輩で一緒にMUGENに入社した岡野も、「天婦羅みやしろ」のミシュラン1つ星の獲得に貢献してくれた仲間の一人です。彼とはオープン当初にイタリア出張を共にし、現地のワイナリーを訪問し、屋外でイタリア人の方々に天婦羅をふるまうという貴重な機会をいただきました。現在は岡野も「天婦羅みやしろ」を離れ、中目黒にある「吉次蟹蔵」という個室店舗を任されたり、VIPの出張料理を担ったり、ホテル時代の彼からは想像もつかないような活躍をしています。彼自身、MUGENに入社したことで経験の幅が大きく広がり、見える世界が変わったと語っています。

私は今後も自分の身体が続く限り、仲間と共に店を発展させていきたいと思っています。いずれにせよ、私には料理しかありませんから。そのためにも、若いメンバーが成長できる環境を整えていかなければなりません。昨年は全社の店舗MVPを天婦羅みやしろのメンバーで受賞することができました。女性メンバーの中塚が自らソムリエ資格の取得に向けて頑張っていることもあり、彼女が同時に殊勲賞を獲得したことも、実に嬉しい出来事でした。私たちが存続できるのは、いつもご来店くださるお客様、社内の仲間、パートナー企業の皆さまの存在があってこそです。今後も初心を忘れず、精進してまいりたいと思います。

※MUGENでは、社長は肩書きではなく名前で呼ばれています。

プロジェクト第2号店

住所 〒153-0051
東京都目黒区上目黒2-18-11
電話番号 03-6452-2808
営業時間 Lunch:11:30 - 14:00
Dinner:17:30 - 23:00
定休日 月曜日
座席数 カウンター8席
HP https://www.miyashiro.tokyo/