鮨の匠 月生田 光彦

鮨 つきうだ

月生田 光彦

自分の店を持つため研鑽に励み、2016年に自店をオープン

1970年、長野県生まれ。寿司が好きで、自分の店を持ちたいという思いを抱き、料理の道へ。
【なだ万 横浜店】の寿司部門のサブチーフを9年務めたのをはじめ、銀座の寿司店【真魚】の副料理長、新宿ヒルトン【武蔵野寿司】の料理長などを歴任。その後も研鑽を重ね、【銀座 いわ別館】で腕を磨き、2016年9月に【鮨 つきうだ】のオープンに伴い店主となる。

インタビュー

なぜ、「鮨」の道を選んだのか。

子どもの頃から寿司が好きだったからです。寿司はその漢字が示しているように、私が幼い頃はまだ、特別な「お祝い」の日にしか食べられないような高価なものでした。今のように回転寿司チェーンが一般化し、誰もが気軽に食べられるような時代ではなかったのです。家族の誕生日、運動会で1等を獲った日、野球の大会で優勝した日など、うれしかった日のご馳走として、子ども時代の記憶に色濃く残っていました。

鮨の世界へ飛び込んだのは高校卒業後、就職先を探すタイミングでした。自分には、サラリーマンとして組織で出世していくような将来像は、今ひとつ想像ができませんでした。一方で、自分の店を持つことには漠然とした憧れがあったのです。いわゆるレールの敷かれた人生を歩むより、一国一城の主として我が道を切り拓いていくほうが、生き方として面白そうだと感じました。職人の世界には、美容師や大工など、さまざまな選択肢があります。そのなかで私が「鮨」を選んだのは、自分の好きなものを職業にしたほうが長続きするだろうと考えたからでした。

高校卒業後に上京し、知人のご縁で日本橋人形町にある老舗の鮨屋に就職しました。当初は東京で10年ほど修行をしたら、長野に帰って自分の店を持ちたいと考えていました。しかし、バブルの崩壊を機に景気は一気に下り坂に…。長野オリンピック閉幕後の地元は閑散としており、私が上京した当時の経済状況とは、もはや大きく変わっていたのです。同じ頃、プライベートで結婚もしたので、地元に帰るという選択肢は次第に現実的ではなくなっていきました。

2015年、MUGENとの運命的な出逢い。

MUGENとのご縁は、一人のお客様が結んでくださいました。前職の店が物件契約の関係で退去となり、同時に私も退職する旨をご報告に伺った際のことです。「月生田さんにぜひ紹介したいオーナーがいる!」…と、思いがけないオファーをいただきました。内山さんに初めて逢ったのは、中目黒にある会社のオフィスでした。正直なところ、当時はMUGENに入社するつもりはありませんでした。既に別のオーナーのもとで店を任されることが決まっていたのです。しかし、初対面から1時間もしないうちに、気づいたときには気持ちが動いていました。内山さんの人柄には何か惹かれる魅力があり、この人と一緒に仕事をしたら面白そうだな…という直感があったのです。

入社後の約10ヵ月間、人生初の居酒屋業態を経験する。

内山さんには希望給与を保証いただく代わりに、入社に際して一つの条件を提示されました。それは、新店舗が立ち上がるまでの一定期間、私もグループ内の居酒屋業態の店舗に入り、既存の社員やキャストと共に現場の業務を経験することでした。当時のMUGENにとって、鮨業態は初めての出店です。新店舗に投資ができるのは、既存の居酒屋業態の売上があってこそ。だから、その現場に少しでも自分が貢献するのは当然のことだと感じました。内山さんとしては、同じ会社の仲間として、入社当初から他店舗のメンバーとの絆を深めて欲しいという想いもあったと思います。

鮨の現場しか知らない私にとっては、またとない機会だと思いました。居酒屋で働くのは初めての経験ですから、きっと出来ないことや知らないこともあるでしょう。でも、いざ新店舗の現場が始まれば、もう二度と経験するチャンスはないと思ったのです。

入社後の約10ヵ月間、グループ内の各店舗の現場に入り、ひと通りの仕事を経験させてもらいました。仲間には迷惑をかけましたが、実に貴重な経験をさせてもらったと思っています。私は年齢が年齢ですし、みんな扱いにくかったんじゃないかな…(笑)丸の内の『魚治(うおはる)』のドリ場やランチの洗い場なんて、ピークタイムは想像以上に凄まじい現場でした。「俺に任せろ!」…なんて言い張ったものの、すぐに後悔するような激烈さなのです(笑)それでも言ったからにはやり切りましたよ!最初はみんなに手伝ってもらいましたが、最終的には一人で回せるようになりました。

技術以外の知識や経験を深めることが、料理人としての将来的な価値になる。

店舗運営というのは、チームワークで成り立つものです。各メンバーの仕事を自ら経験しなければ、自分の持ち場以外のポジションで働く仲間の気持ちは理解できません。店が忙しいときにも、相手の仕事を知っていれば的確な指示が出せるし、何を手伝えば仲間が助かるのかも分かるのです。特に料理人というのは、どうしても調理の技術に走ってしまいがちです。昨今の飲食業界は分業が進んでおり、料理人として入社すると、接客の経験をせずに調理場に入るケースがほとんどです。それではホールで働く仲間の気持ちはもちろん、お客様の目線も見落としてしまいます。私は最初の就職先が町場の鮨屋だったので、ホールや洗い場、出前など、店の仕事はすべて経験しました。ホテルに転職後も、トーションの扱い方をはじめ、ホールの仕事を自ら率先して学んだのです。ホテルは業務が完全に分かれているので、調理の人間がサービス業務を経験する機会はありません。だから、ホテルから転職してくる料理人の後輩には、教えることがたくさんあるのです。たとえば納品された瓶ビールの底を、きちんと拭いてから冷蔵庫にしまうこと。お客様に提供する際にはラベルを正面に向けること。いずれも当たり前の小さなことではありますが、ホール業務の経験がなければ、なかなか意識できないものです。今や食材知識や調理技術だけで勝負できるほど、料理人にとって甘い時代ではなくなりました。MUGENには、サービス業務の経験をはじめ、数字管理や集客、マネジメントなど、料理人としての総合的な力を養える環境があります。自分の将来的な価値を高めたいと思う人には、絶好の機会になるはずですよ。

店主としての誇りと責任を胸に、「自分の鮨」が握れる環境がある。

「鮨つきうだ」の立ち上げには、カウンターの長さや高さ、椅子やお手洗いに関するこだわりなど、店づくりから私の意見を反映いただきました。食材の仕入れやメニュー構成については、開店当初からすべて私にお任せいただいています。過去の職場では、私が手がけたメニューが、オーナーの意見で一変してしまうという苦い経験が多々ありました。それでは店主の私が存在する意味もないし、もはや私の鮨ではありません。一方で内山さんは、私がこれまで培ってきた技術や経験を尊重し、料理に関して100%の信頼をくださっています。料理人としての誇りや喜びを胸に仕事ができる有難い環境に感謝し、より一層の研鑽に励みたいと思う日々です。

人生で初めて、「年収1000万円」の目標に邁進する。

過去の職場でも食材原価や人件費など、ある程度の予算管理は経験しましたが、MUGENに入社後のほうが圧倒的に細かい数字管理を担うようになりました。数字を見ることは勉強になりますし、何より予算を達成すれば賞与にも反映されるので、店で働くメンバー全員にとっての指針になります。私自身はもともと、肩書や収入への執着が薄い人間で、これまで転職する際にも給料を基準に仕事を選んだことはありませんでした。しかし、MUGENに入社して初めて、年収1000万円という具体的な目標を掲げるようになったのです。それは、私のライフステージが変わり、2人の子供に学費がかかる時期を迎えたからでした。実は私自身が子どもの頃、実家の経済的な理由で、やりたいことを諦めた経験がありました。中学時代、甲子園を夢見て野球に励んでいた私に、強豪校から声がかかりました。しかし、当時の実家には、私を志望校に通わせる経済的な余裕がなかったのです。だからこそ自分の子供たちには、できる限りやりたいことをやらせてあげたい。そのために必要な学費をリアルに計算したとき、自分が稼がなくてはと強く思ったのです。内山さんは私の目標に賛同してくださり、それを達成するための具体的な目標設定にも一緒に取り組んでくださいました。会社としても、1000万円プレイヤーをぜひとも輩出し、高収入を望む料理人がいれば、私の後に続いて欲しいと考えているのです。コロナ禍の影響で当初の予定よりは遅れましたが、いよいよ私の目標達成の日も近づいているところです。

若手職人が活躍する「鮨おにかい」を、仲間と共に立ち上げる。

MUGENは現在、「鮨おにかい」というブランドの鮨業態を展開しています。「鮨おにかい」のカウンターに立っているのは、主に若手の鮨職人たちです。なかには飲食人大学にて3ヵ月間、初めて鮨を学んでデビューした未経験者も活躍しています。やる気とセンスさえあれば、いわゆる昔ながらの下積み期間なしで、若いうちから活躍できるステージが整っているのです。このような仕組みづくりが始まったのは、「鮨つきうだ」がオープンして間もない頃でした。当時の「鮨つきうだ」を支えてくれた後輩(坂本)の将来的なキャリアパスがないという課題に対し、社内でそれを解決する仕組みを創ろうという内山さんの提案からスタートしました。何事も、新たに立ち上げるのは大変なことです。内山さんが語るビジョンは頭では理解したものの、当時の私は自分の店を切り盛りすることで精一杯。日々の営業に必死で、まったく余裕がありませんでした。そんななか、「鮨つきうだ」のランチタイムに「若手育成デー」を設け、近い将来デビューを目指す若手をカウンターに立たせる企画が始まりました。大将の私が握るコースとまったく同じ鮨を修業中の若手が握る代わりに、お客様には原価で提供するのです。当日に向けて、SNSの発信や集客も本人たちが担います。これにより、若い頃からカウンターに立ち、場数を踏む機会が得られることに加え、自力で集客することの大変さも身をもって知ることができます。当初は緊張した面持ちに、ぎこちない所作で鮨を握る若手を監督しながら、私自身もハラハラの連続でした。しかし、回を重ねるごとに本人にも自信がつき、彼らの成長をお客様が応援してくださるようになりました。お客様の温かいご支援のおかげで彼らは一人前になり、今では「鮨おにかい」のカウンターで堂々と鮨を握っています。「鮨つきうだ」を卒業した坂本も、今では「野毛のおにかい」の店主として活躍しています。仕組みづくりの渦中にいた時期は本当に大変でした。「おにかい」のオープン当初は人手が足りず、内山さんのお母様や、私の妻にも店を手伝ってもらいました。あのとき描いたビジョンが見事に形になった今は、本当に清々しい気持ちでいっぱいです。坂本をはじめ、うちで修業した後輩たちは皆、「鮨つきうだ」に愛着を持ってくれています。一緒に大変な時期を乗り越えたからこその絆があるのです。また、「鮨つきうだ」「鮨おにかい」を卒業した後輩のなかには、現在ニュージーランドにて鮨職人として活躍している女性もいます。日本の食文化である鮨は今、世界からの注目がますます高まっています。「未経験から鮨職人になりたい」「自分の店を持ちたい」「将来的に海外で活躍したい」という方にとって、今のMUGENには絶好の環境が整っています。ぜひこのチャンスを自分のものにしていただきたいですね。

「鮨つきうだ」のこれから。

まずは「鮨つきうだ」の10周年に向けて、スタッフ全員で引き続き良い店づくりに励んでまいりたいと思います。いつも足を運んでくださるお客様をはじめ、農家さんや漁師さん、パートナー企業の皆さまのおかげで私たちは存続することができます。最近はもう、節々が痛い年齢でもあるのですが…(笑)自分の身体が続く限り、ずっとカウンターに立ち続けたいと思っています。

※MUGENでは、社長は肩書きではなく名前で呼ばれています。

プロジェクト第1号店

住所 〒153-0043
東京都目黒区東山1-11-15 中目黒ARKⅡ1F
電話番号 03-6303-1733
営業時間 Lunch:12:00 - 14:00
Dinner:18:00 - 23:00(LO 22:30)
定休日 なし
座席数 カウンター8席 / 個室 1室
HP https://www.tsukiuda.tokyo/